『「対話」がやってきた』勅使河原真衣

 勅使河原真衣さんの『「対話」がやってきた』を読みました。

 勅使河原さん初の小説は、単なるお仕事小説ではありませんでした。

 組織の中で働いていれば、一度は経験がある問題への向き合い方がとてもリアルに描かれていました。

 問題がなんとなく先送りにされる、解決したような雰囲気で終わっていく、誰も反対しづらい言葉に、問題がすり替わっていく、この小説は、そうした現状に切り込む内容になっていました。

 組織を改善していくときには、とにかく対話が必要だと、いろいろなところで語られています。

 確かに、対話は必要です。

 ただ、そもそも対話とは何かが分からないまま、対話のやり方を誰も知らないまま、まずは対話しやすい環境を、と話が進んでいきます。

 学校でも、問題を検討していくという言葉で流れていくことが多いと感じています。

 検討を重ねるうちに、話は学校風土をどう変えるかという、抽象度の高いものになっていきます。

 最初にあった問題は、具体的でゴツゴツした言葉です。

 誰が、どの場面で、何に困っていたのか、切実な問題があったはずなのにいつの間にか角のない、抽象度の高い言葉になって、全体の同意があったかのように終わっていきます。

 風土を変える、風土を作るいう言葉には、異を唱える人があまりいません。

 反対が出ないことと、合意があることは違うはずなのに、曖昧なまま合意があったかのように進んでいきます。

 なぜなら誰もが責任を負いたくないからです。

 問題を抽象化していけば誰かが責められることなく、そして大きな痛みを負うことなく過ごしていけます。

 そうやって責任を上手く中和していくことが組織にとって重要なことになってしまっているんだと読みながら感じました。

 なので、読みながらとても苦しくなる場面がたくさんありましたが、目を背けてはいけないんだなとも思いました。

 年齢的にも抽象で曖昧な言葉に流されそうな時にグッと堪えて、流さない覚悟を持たないいけないんだと感じています。

 もう一つ、同じように物語の中に投げ込まれた問題があります。

 世間が評価する経験についてです。

 物語の冒頭で、主人公は自分史を求められる面接の場で、自分がヤングケアラーだったことを語ります。

 ここには、海外での経験や一部の人にしかできない経験を称賛し、推奨する世間への疑問が込められていると感じました。

 自分も高校で面接指導をするとき、生徒にしてきたアドバイスが、暗に社会課題に向き合った活動などを求めていたような気がしています。

 ヤングケアラーとして過ごした経験や、虐待のある家庭で育ってきた経験は評価されることはないように思います。

 どこかでそう判断してしまっていないか、そう聞かれているように感じました。

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