高校生とセットログの話をして考えたこと
高校生とセットログというサービスの話をしました。
自分ではやったことはないんですが、特定の人数だけで、お互いの行動を動画で共有するSNSだということだけを知っていました。
決まった時間に撮影するBeRealよりも、さらに閉じたSNSになるんだと思います。
生徒に詳しく聞くとセットログをしている人だけで共有して、不特定の誰かに見られることはないそうです。
では、なぜそこまで閉じたところで発信するのか。
聞いてみると、ほんとうにどうでもいいことを共有できるからだそうです。
寝ていること。トイレに行くこと。そんなことまで共有しあう、他にもバイトに行く相手のログを見て、頑張れぇと送る、お互いの様子をクイズにしあう、LINEのようにいつでも送るわけではなく、1時間に一度、決まった時間に送りあうのがいいということでした。
セットログの1時間に1度という不自由さが、かえって関係を支えているように思えました。
Instagramに代表されるようなSNSは、自分をアピールするためのものです。
いい瞬間を切り取り、加工して、見せたい自分を発信しあっています。
そこに疲れた人たちがBeRealに流れたのは、リアルな自分を伝え合いたかったからだと思います。
加工されていない、素の瞬間を共有しあうことで関係を作っていくんだと思います。
セットログは、そのさらに先にあるように見えました。
BeRealが素の自分を見せるSNSだとすれば、セットログは素の関係を見せるSNSのように思いました。
何を投稿しているかは、他の誰にも見せない。見せているのは、投稿の中身ではなく、お互いがどれだけ何でもないことを共有し合えるかという関係そのものだと思います。
私たちはお互いのすべてを公開し合える。他の人には無理な私たちを、私たちだけに見せています。
面白いのは、そのセットログのやりとり自体をスクリーンショットにして、nstagramで公開している姿があることです。
ある1日の中身は見せるけれど、全てを見せないことで、私たちはこんなに気の置けない関係を持っていること自体は見せています。
そこにあるのは、特別な体験をしたという誇示ではなく、特別な関係を持っているという誇示なのかもしれないです。
どこに行った、何を食べたという体験の価値よりも、誰と、どれだけ何でもない時間を共有できるかという関係の価値が、少しずつ重みを増しているようにも見えます。
同じ空間にいないのに、相手が今何をしているかを知っている。その安心感は、かつての「よそ行きの自分」を見せ合うSNSにはなかったものかもしれません。
ただ、この閉じ方には、もうひとつの側面があります。
閉じたSNSでは、偶然の出会いは生まれません。
知らない誰かの投稿に不意に心を動かされる、というようなことが起こりにくい構造です。
お互いが良ければそれでいい、という関係が完結してしまえば、そこから外へ広がっていく動機も薄れていきます。
私たちだけの安心感を守ることと、私たちの外にある何かと関わっていくことは、もしかすると少しずつ違う方向を向いているのかもしれません。
高校生全員に聞いたわけではないので、これがどこまで広がっている感覚なのかは分かりませんが、ただ、一人の生徒との会話から、安心と閉じることの関係について、考えさせられました。

高校生とセットログというサービスの話をしました。
自分ではやったことはないんですが、特定の人数だけで、お互いの行動を動画で共有するSNSだということだけを知っていました。
決まった時間に撮影するBeRealよりも、さらに閉じたSNSになるんだと思います。
生徒に詳しく聞くとセットログをしている人だけで共有して、不特定の誰かに見られることはないそうです。
では、なぜそこまで閉じたところで発信するのか。
聞いてみると、ほんとうにどうでもいいことを共有できるからだそうです。
寝ていること。トイレに行くこと。そんなことまで共有しあう、他にもバイトに行く相手のログを見て、頑張れぇと送る、お互いの様子をクイズにしあう、LINEのようにいつでも送るわけではなく、1時間に一度、決まった時間に送りあうのがいいということでした。
セットログの1時間に1度という不自由さが、かえって関係を支えているように思えました。
Instagramに代表されるようなSNSは、自分をアピールするためのものです。
いい瞬間を切り取り、加工して、見せたい自分を発信しあっています。
そこに疲れた人たちがBeRealに流れたのは、リアルな自分を伝え合いたかったからだと思います。
加工されていない、素の瞬間を共有しあうことで関係を作っていくんだと思います。
セットログは、そのさらに先にあるように見えました。
BeRealが素の自分を見せるSNSだとすれば、セットログは素の関係を見せるSNSのように思いました。
何を投稿しているかは、他の誰にも見せない。見せているのは、投稿の中身ではなく、お互いがどれだけ何でもないことを共有し合えるかという関係そのものだと思います。
私たちはお互いのすべてを公開し合える。他の人には無理な私たちを、私たちだけに見せています。
面白いのは、そのセットログのやりとり自体をスクリーンショットにして、nstagramで公開している姿があることです。
ある1日の中身は見せるけれど、全てを見せないことで、私たちはこんなに気の置けない関係を持っていること自体は見せています。
そこにあるのは、特別な体験をしたという誇示ではなく、特別な関係を持っているという誇示なのかもしれないです。
どこに行った、何を食べたという体験の価値よりも、誰と、どれだけ何でもない時間を共有できるかという関係の価値が、少しずつ重みを増しているようにも見えます。
同じ空間にいないのに、相手が今何をしているかを知っている。その安心感は、かつての「よそ行きの自分」を見せ合うSNSにはなかったものかもしれません。
ただ、この閉じ方には、もうひとつの側面があります。
閉じたSNSでは、偶然の出会いは生まれません。
知らない誰かの投稿に不意に心を動かされる、というようなことが起こりにくい構造です。
お互いが良ければそれでいい、という関係が完結してしまえば、そこから外へ広がっていく動機も薄れていきます。
私たちだけの安心感を守ることと、私たちの外にある何かと関わっていくことは、もしかすると少しずつ違う方向を向いているのかもしれません。
高校生全員に聞いたわけではないので、これがどこまで広がっている感覚なのかは分かりませんが、ただ、一人の生徒との会話から、安心と閉じることの関係について、考えさせられました。

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