『ヤンバルの甲虫』
そんな終わることない甲虫動画を一休みして、階段を降りると、リビングの明かりは消えているのに、机の上に開きっぱなしになったノートが置いてあった。どこにでもある大学ノートだった。きっと兄のだろう。兄はよくここで勉強する。
コップに水を注いで一口飲み、俺はついノートに目を落とした。几帳面な字。左肩に日付、右肩に「英長文・物理・政経」。マーカーの色分け。ToDoの欄にはチェックがびっしり入っている。やっぱり兄貴は完璧だ。そう思いながら、なんとなくページをめくった。
勉強の痕跡に続いて、殴り書きのような文字が続いていた。
・親の期待に、押しつぶされそうになる。
・優等生である顔を、誰にも見せずに脱ぎたい。
・本当は、絵本を作りたい。
・自分に素直でいたい
ノートをめくる手が止まった。何度も書いては消したような跡がある。迷いの筆圧が紙の裏まで残っていた。兄が。あの兄が。絵本を作りたい。
思い返せば、兄は小学生のころよく絵を描いていた。紙いっぱいの昆虫や動物。夏休みには絵本を作って、両親に嬉しそうに見せていた。俺にも見せてくれていた気がする。確か地区のコンクールで入賞したこともある。その時はいつものことかと思っていたけれど、あの時の笑顔は違っていたのかもしれない。しかし、兄貴はある時から絵をやめた。高校受験モードに切り替えたんだな、さすがだなと勝手に思っていた。机の上にあった色鉛筆はシャーペンに、スケッチブックは英単語帳に変わっていた。
兄の最後の言葉が頭を巡る。素直になりたい。兄貴が、あのいつも何でも出来てしまう特別な兄貴が素直になりたい。実は無理をしていた。兄の言葉が、俺の心に根を張るように胸に残った。
兄が特別で自分のやりたいことをやっていると思っていたから俺は普通を選んだ。いや選ぶしか自分を守る方法がなかった。そんな兄が特別じゃないとしたら普通って、何だ。
兄は特別で、俺は普通。そんな線引きは、誰のために引かれたんだ。
ページを閉じ、ノートを持って自分の部屋に戻った。暗闇に目が慣れると、机の上に置きっぱなしの進路希望調査票が見えてきた。何も書くことが出来ないまま持って帰ってきた希望調査。
ベッドに横になった。スマホの動画の続きを観る気になれず目を閉じた。ヤンバルテナガコガネの姿が目の裏に現れた。沖縄の森にしかいないあの甲虫。光沢のある前脚、分厚い殻。
俺はもう知っている。自分が普通を言い訳にしていたことを。本当は普通じゃなかったことを。夏の夜の森で父と見上げたカブトムシの黒い影から始まっていた。標本箱に並べた翅脈の光沢は、俺の宝石だった。笑われて隠した夢は、今も残っている。
昆虫学者になりたい。
その思いは、もう消えなかった。
翌日、職員室にいる担任の先生に進路希望調査の紙を提出しに行った。
第一志望 琉球大学 農学部 亜熱帯生物資源科学科(昆虫関連)
それだけを書いて、他の欄は空白のままにした。担任の先生は記入された大学名を見て
「第一希望だけでいいのか。この大学に行って何かやりたいことはあるのか。」
「昆虫学者になりたいと思っています。いつか新種を見つけて、自分の名前を残したい。」。笑われるかもしれないという気持ちは不思議と起きなかった。
担任は「分かった。家の人とも相談しておくように。」と言った。
家に帰ると、兄がリビングで水を飲んでいた。夕方の光がカーテンの隙間から線になって差し込み、兄の肩にかかっている。俺は一度深呼吸をしてから、声をかけた。
「兄貴、ありがとう」
「え?」
「ノート、読んだから。俺、今日、書いたんだ。」
兄の眉が上がった。「なんの話?」
とぼけているのかと思った。俺は自分の部屋から、昨夜のノートを持ってきて開いた。例のページ。親の期待、優等生の重さ、絵本のこと。
兄は首を傾げ、少し困ったように笑った。
「それ、俺のじゃないよ」
足音がして、キッチンから母が顔を出した。
「あら、そのノート……」
俺と兄が同時に振り向く。
「それ、お父さんのよ。久しぶりに出してきたの。仏壇の引き出しに入れてあってね。ほら、表紙の裏に日付が書いてあるでしょ。机に置いていたと思っていたのに翔太が持っていたのね。」
表紙の裏を慌ててめくる。そこには兄貴も俺も生まれていない年月日が丁寧に書かれていた。俺は言葉を失った。兄の本音だと信じていた字は、父の若い字だった。
母はノートをそっと受け取り、表紙を撫でた。
「ところで翔太、何を書いたの?」
「……進路の、進路希望調査に琉球大の昆虫を学べる学部を書いた。担任の先生には昆虫学者になりたいって言った。」
「そう」
母は薄く笑って、ノートを胸に抱いた。
「もしあなたの背中を押したなら、天国から応援してくれたのかもね」
母が仏壇にノートを戻す姿を、俺はじっと見ていた。線香の香りが薄く漂い、ページの隙間から父とのあの時間がふわりと立ち上る気がした。
兄は静かに笑った。
「昆虫学者か、お前は小さい頃から昆虫が好きだったもんな。ちなみに何で沖縄の大学なんだ。」
「実は俺が好きなヤンバルテナガコガネっていうコガネムシがいるんだけど、それが沖縄にしかいなくて、俺どうしてもそのヤンバルテナガコガネが見たくて。って普通じゃないよな。」
「普通って何だよ。お前は昔から普通なんかじゃなかったぞ。」
「そうそう、急にカブトムシを飼い始めたと思ったらあっという間に虫かごが部屋中に並んでいて、部屋の気温を調整しないといけないから学校に行ってる間も空調を切らないで、電気代は絶対に返すからって言い出した時はお父さんと顔を見合わせたわよ。」
母親が懐かしそうに笑った。
ヤンバルの森にしかいない甲虫。その硬い殻の奥に、俺の夢はまだ息をしている。

そんな終わることない甲虫動画を一休みして、階段を降りると、リビングの明かりは消えているのに、机の上に開きっぱなしになったノートが置いてあった。どこにでもある大学ノートだった。きっと兄のだろう。兄はよくここで勉強する。
コップに水を注いで一口飲み、俺はついノートに目を落とした。几帳面な字。左肩に日付、右肩に「英長文・物理・政経」。マーカーの色分け。ToDoの欄にはチェックがびっしり入っている。やっぱり兄貴は完璧だ。そう思いながら、なんとなくページをめくった。
勉強の痕跡に続いて、殴り書きのような文字が続いていた。
・親の期待に、押しつぶされそうになる。
・優等生である顔を、誰にも見せずに脱ぎたい。
・本当は、絵本を作りたい。
・自分に素直でいたい
ノートをめくる手が止まった。何度も書いては消したような跡がある。迷いの筆圧が紙の裏まで残っていた。兄が。あの兄が。絵本を作りたい。
思い返せば、兄は小学生のころよく絵を描いていた。紙いっぱいの昆虫や動物。夏休みには絵本を作って、両親に嬉しそうに見せていた。俺にも見せてくれていた気がする。確か地区のコンクールで入賞したこともある。その時はいつものことかと思っていたけれど、あの時の笑顔は違っていたのかもしれない。しかし、兄貴はある時から絵をやめた。高校受験モードに切り替えたんだな、さすがだなと勝手に思っていた。机の上にあった色鉛筆はシャーペンに、スケッチブックは英単語帳に変わっていた。
兄の最後の言葉が頭を巡る。素直になりたい。兄貴が、あのいつも何でも出来てしまう特別な兄貴が素直になりたい。実は無理をしていた。兄の言葉が、俺の心に根を張るように胸に残った。
兄が特別で自分のやりたいことをやっていると思っていたから俺は普通を選んだ。いや選ぶしか自分を守る方法がなかった。そんな兄が特別じゃないとしたら普通って、何だ。
兄は特別で、俺は普通。そんな線引きは、誰のために引かれたんだ。
ページを閉じ、ノートを持って自分の部屋に戻った。暗闇に目が慣れると、机の上に置きっぱなしの進路希望調査票が見えてきた。何も書くことが出来ないまま持って帰ってきた希望調査。
ベッドに横になった。スマホの動画の続きを観る気になれず目を閉じた。ヤンバルテナガコガネの姿が目の裏に現れた。沖縄の森にしかいないあの甲虫。光沢のある前脚、分厚い殻。
俺はもう知っている。自分が普通を言い訳にしていたことを。本当は普通じゃなかったことを。夏の夜の森で父と見上げたカブトムシの黒い影から始まっていた。標本箱に並べた翅脈の光沢は、俺の宝石だった。笑われて隠した夢は、今も残っている。
昆虫学者になりたい。
その思いは、もう消えなかった。
翌日、職員室にいる担任の先生に進路希望調査の紙を提出しに行った。
第一志望 琉球大学 農学部 亜熱帯生物資源科学科(昆虫関連)
それだけを書いて、他の欄は空白のままにした。担任の先生は記入された大学名を見て
「第一希望だけでいいのか。この大学に行って何かやりたいことはあるのか。」
「昆虫学者になりたいと思っています。いつか新種を見つけて、自分の名前を残したい。」。笑われるかもしれないという気持ちは不思議と起きなかった。
担任は「分かった。家の人とも相談しておくように。」と言った。
家に帰ると、兄がリビングで水を飲んでいた。夕方の光がカーテンの隙間から線になって差し込み、兄の肩にかかっている。俺は一度深呼吸をしてから、声をかけた。
「兄貴、ありがとう」
「え?」
「ノート、読んだから。俺、今日、書いたんだ。」
兄の眉が上がった。「なんの話?」
とぼけているのかと思った。俺は自分の部屋から、昨夜のノートを持ってきて開いた。例のページ。親の期待、優等生の重さ、絵本のこと。
兄は首を傾げ、少し困ったように笑った。
「それ、俺のじゃないよ」
足音がして、キッチンから母が顔を出した。
「あら、そのノート……」
俺と兄が同時に振り向く。
「それ、お父さんのよ。久しぶりに出してきたの。仏壇の引き出しに入れてあってね。ほら、表紙の裏に日付が書いてあるでしょ。机に置いていたと思っていたのに翔太が持っていたのね。」
表紙の裏を慌ててめくる。そこには兄貴も俺も生まれていない年月日が丁寧に書かれていた。俺は言葉を失った。兄の本音だと信じていた字は、父の若い字だった。
母はノートをそっと受け取り、表紙を撫でた。
「ところで翔太、何を書いたの?」
「……進路の、進路希望調査に琉球大の昆虫を学べる学部を書いた。担任の先生には昆虫学者になりたいって言った。」
「そう」
母は薄く笑って、ノートを胸に抱いた。
「もしあなたの背中を押したなら、天国から応援してくれたのかもね」
母が仏壇にノートを戻す姿を、俺はじっと見ていた。線香の香りが薄く漂い、ページの隙間から父とのあの時間がふわりと立ち上る気がした。
兄は静かに笑った。
「昆虫学者か、お前は小さい頃から昆虫が好きだったもんな。ちなみに何で沖縄の大学なんだ。」
「実は俺が好きなヤンバルテナガコガネっていうコガネムシがいるんだけど、それが沖縄にしかいなくて、俺どうしてもそのヤンバルテナガコガネが見たくて。って普通じゃないよな。」
「普通って何だよ。お前は昔から普通なんかじゃなかったぞ。」
「そうそう、急にカブトムシを飼い始めたと思ったらあっという間に虫かごが部屋中に並んでいて、部屋の気温を調整しないといけないから学校に行ってる間も空調を切らないで、電気代は絶対に返すからって言い出した時はお父さんと顔を見合わせたわよ。」
母親が懐かしそうに笑った。
ヤンバルの森にしかいない甲虫。その硬い殻の奥に、俺の夢はまだ息をしている。

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