埋められない溝

 ふとした時に埋められない溝があるかもしれないと感じることがあります。

 溝の内容は学びの主導権を手放せるかどうかです。

 学びの主導権を子供に渡したら、何をするか分からない、勉強以外のことをする、無駄話をする、ICTを使って関係ない動画を見るに違いない・・・

 そういう言葉をもう何度、聞いたか分かりません。
 
 学びの主導権を手渡した瞬間からみんなが学びに向かっていくなんて魔法のようなことはありません。

 むしろ見た目は今までより悪く見えるかもしれません。

 立ち歩いたり、友達と話をしたり、関係ない動画を見ている、そんな姿も出てくるでしょう。

 それを見てきちんと座らせないといけない、無駄話はしてはいけない、関係ない動画なんて見せてはいけないと思う気持ちが分からないわけではありません。

 ただそれは今までの授業では見えていなかっただけではないでしょうか。

 みんな座って前向いて授業を受けましょうでは、見えていなかった姿が顕在化しただけではないでしょうか。

 決まった時間、決まったことを座らせてやらせていれば、見えなかった子供の脳内が顕在化しただけではないでしょうか。

 聞いているように見えて実は他のことを考えているというのは子供に限らず大人でもあるんじゃないでしょうか。

 子どもに任せたいけれど、共通テストに向けてやらないといけないことがあるから、教えないと出来ないから・・・

 そんな言葉を聞いてきました。

 でも、それを聞くたびにそれは本当に子供が一生幸せに生きていくために必要なことですか?と思ってしまう自分がいます。

 面と向かって言うことはほとんどありません。

 もしかするとここにもあまり書いていなかったかもしれません。

 ただ中央研修に行った時にも何度かそんな溝を感じたことがあり、珍しく感情に任せて文章を書いてしまっています。

 大きな溝があることは分かっていましたがあらためて感じてしまったからです。

 もしかすると僕がそんな溝を感じていたことを知らなかった人も読まれているかもしれません。

 その人のことを批判したいわけでも、違うだろと言いたいわけでもありません。

 学校というシステムの中でいればごく自然にそういう考えになっていくと思います。

 成績の締め切り、説明責任、成績の根拠、評価の観点などやらなければいけないといわれることは毎年のように増えています。

 考査の点数だけで評価しないでください、提出分の回数だけで評価しないでください、と言いながら評価はしなくてはなりません。

 絶対評価でありながら全員5というのは許されない雰囲気があります。

 生徒に任せたら評価はどうしたらいいんですか。そう思う気持ちもよく分かっているつもりです。

 人生を俯瞰で見たときに国語の評価が2だったことはどれだけ影響があるでしょうか。

 その評価のために子供に任せないというのは本当に正しいことなんでしょうか。

 子供に学びの主導権を任せるという選択肢を本気で考える時期が来ていると思います。

 ただそんな中でも全国いろんな場所で変化の兆しは起きています。

 既存の学校教育のシステムにフィットしていない子どもの数が今後ますます増えていくと思います。

 広域通信制の生徒数の増加、学びの多様化校の増加数など、目に見える変化が間違いなく起きています。

 最後になりますが、僕は学校の先生がとても好きです。

 だから先生にも幸せになってほしいと本気で願っています。

 そのためには学びの主導権を手放すことが本気で必要だと思っています。

 そんな思いが少しでも伝わればいいなと思っています。

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