『忘れる読書』落合陽一

 落合陽一さんが読書について書かれた『忘れる読書』を読みました。

 何のために読書をするのか?

 知識を詰め込んだり、何かを覚えるためにするのではない。

 読書は思考のフォーマットを作っていくために読むのであって内容を覚えようと思って読む必要はないというのが、『忘れる読書』から僕が感じたことです。

 本を一つの具体として読んでいくのではなく、抽象化して自分の中に落とし込むことで他の本を読んだ時に比較して読んだり、物事を考える時に置き換えることが出来る。

 なるほど!と思った例としては「これからの時代に必要な知識や技能として、プログラミング教育をさせるべきですか」という質問があった。

 プログラミングを学ぶことが悪いわけではないが、プログラミングのコードという具体を学んでも今のコードが数年後に使えるかどうかも分からない。

 なぜプログラミングを学びたいのか、どうなりたいのか、プログラミングから何を学びたいのかがないと意味がない。

 学校ではとにかく全員に具体を教えようとしているが、そうではないんだなとあらためて感じた。

「学び方を教えるとは何か?」というヒントになる気がする。

 学び方とは大量の具体を抽象化して、また具体におとしこむという繰り返しの中で自分にあったものが見つかるのではないかと思う。

 そう考えると、「学び方を教えなくてはならない」というが、学び方を知るには大量のインプットがないと出来ないのではないかという気がしている。

 ということは、働くようになってからインプットをしていない人には、学び方を教えることはなかなか難しい気もしてきてしまう。


 自分の読書

 他にも”あっそれ分かる”と思ったのが、「自分の感性にあった言葉に置き換える」というものです。

 落合さんの場合は『風姿花伝』というかなり難解な本を引き合いに出されていたが、小説や漫画でも多く読むことでできるようになる気がする。

 僕の感性で表現すると伊坂幸太郎さんの作品はシュっとしてポンポンと跳ねているいる、東野圭吾さんの作品はしっとりしてグッと歩いている。

 他にも多くの作品を読んだり、読み込んだ人の文章は自分の感性にあった言葉がある。

 落合さんの読んできた本を読めば、落合さんのようになれるというわけではないが、落合さんの思考のフォーマットの作り方を知れたことで、自分の中でも読書によってもっと多くの型を作っていこうと思えた。


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