『推し、燃ゆ』を読みました
 
 宇佐見りんさんの芥川賞受賞作。前作の『かか』の時に少し読みづらさを感じていたんですが、今回の『推し、燃ゆ』はまったくそんなことがなく、現代の生きづらさの表現がバシバシと心に突き刺さってきて、芥川賞受賞のハードルをやすやすを飛び越えてくれました。  
 推し、燃ゆというのは
推し=自分が応援しているアイドルなど
燃ゆ=炎上する

 ざっくり内容を説明すると応援していたアイドルが炎上した話になると思うんですが、そこに主人公の生きづらさが絡まって、誰もが感じた生きづらさを表現してくれています。

 心がハッとさせられた文章を少し長いですが引用させてもらいます。
p76
「自分で自分を支配するのには気力がいる。電車やエスカレーターに乗るように歌に乗っかかって移動させられたほうがずっと楽。午後、電車の座席に座っている人たちがどこか呑気で、のどかに映ることがあるけれど、あれはきっと「移動している」っていう安心感に包まれているからだと思う。自分から動かなくなったて自分はちゃんと動いているっていう安堵、だから心やすらかんい携帯をいじったり、寝たり、できる。何かの待合室だってそう、日差しすら冷たい部屋でコートを着込んで何かを「待っている」という事実は、時々、それだけでほっとできるようなあたたかさをともなう。あれがもし自分の家のソファだったら、自分の体温とにおいの染みた毛布の中だったなら、ゲームしてもうたた寝しても、日が翳っていくのにかかった時間のぶんだけ心の中に黒っぽい焦りがつのっていく。何もしないでいることが何かをすることよりつらいということが、あるのだと思う。
 多くの人の心に思い当たりがあるんじゃないかと思う。何もしていないことが不安になったことや、何かしないといけないというプレッシャーを感じたことがきっと多くの人にあるんじゃないかと思う。

 知らない間に「普通であるべきだ」という何か目に見えないものに追い詰められ、普通になろうとしそうでないものを揶揄する。空気が読めない、なんか違うよね、イタい、恥ずい・・・そうやって言うことで自分たちの普通を守ろうとする。
 
 いつの間にか人は存在するだけではダメで、何かをやっていることに価値があると思い込まされる。学校でもみんなに役割を与えようとする。何もしていないのはかわいそうだ、何かすることがないとダメになる。普通なんて目に見えないものに僕らの世界はいつの間にか支配されるようになった、いや支配されるようになったのではなく、実はずっと支配されてきたんだろう。

 普通じゃない人によって世界は変えられてきたけど、普通じゃないと言えるくらい強い人はけっして多くいるわけじゃない。普通にいることがしんどいのに、普通にいることを強制される生きづらさを見事に表現してくれていた。

 ただその表現出来ること自体も、普通ではないのかもしれないんですが・・・

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